ライブハウスを学術的に読み解くこと

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「公共圏」としてのライブハウス

1978年8月31日に音楽番組『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」に出演し、デビュー曲の「勝手にしやがれ」を生演奏で披露したサザンオールスターズ。それから半世紀近く経った現在でも、国民的バンドとして第一線で活躍を続けている。年内には桑田佳祐をはじめとするメンバー全員が古希を迎えるサザンオールスターズだが、『ザ・ベストテン』に出演したときは血気盛んな20代前半。テレビの生中継にもかかわらず、メンバーはジョギング用の短パン姿で、桑田は上半身が裸だった。
https://dot.asahi.com/articles/-/110628?page=1

初めてのテレビ出演が破天荒なパフォーマンスで話題になったサザンオールスターズだが、舞台となったのは新宿ロフトだった。当時のライブハウスはまだ、メインストリームの文化から逸脱したものだった。むしろ、ライブハウスを拠点として、新たな文化が芽生える時期だった。つまり、サザンオー
ルスターズのパフォーマンスは、メインストリームの文化としては異端だったかもしれないが、ライブハウスの文化としては至極当たり前のものだったわけだ。そんな当時のライブハウスの文化については、現在公開中の映画『ストリート・キングダム』で描かれており、そこには新宿ロフトも登場している。
https://happinet-phantom.com/streetkingdom/

新宿ロフトのオープンは1976年だったが、すでにそれ以前から日本のライブハウスの歴史は動きはじめている。1971年にロフトの一号店として、千歳烏山にオープンしたのが烏山ロフトだった。

1971年3月、当時26歳だった平野悠が京王線・千歳烏山のはずれにオープンした記念すべきロフトの第1号店。7坪の木造モルタル造りで、開店当時はログハウス風のジャズ喫茶だった。ジャーナリストの二木啓孝、ノンフィクション作家の生江有二、ミュージシャンの坂本龍一らが常連客で、当時、東京芸術大学の学生だった坂本は、隣駅の桐朋学園に通う女子大生のレポートを代筆する代わりに酒を奢ってもらっていたという。基本はジャズ喫茶だが時折フォークのライブが行なわれることもあり、その後のライブハウス文化の布石となる。1975年に閉店。「ロフトアーカイブス」より(https://www.loft-prj.co.jp/loftarchives/)

それは、2026年3月に他界したドイツの社会学者であるユルゲン・ハーバーマスが提唱した「公共圏」のような空間だった。
https://www.asahi.com/articles/ASV3G6KLLV3GUHBI01FM.html

その後、1973年6月に西荻窪ロフト、1974年11月に荻窪ロフト、1975年12月には下北沢ロフト、そして1976年10月に新宿ロフトがオープンしたのだ。
https://www.loft-prj.co.jp/loftarchives/

1970年代に誕生したロフトは、現在もライブハウス文化を牽引する老舗のライブハウスとして広く認知されている。その創設者である平野悠は1944年生まれで、今年の10月には82歳になる。そんな彼が77歳のときに終の棲家として選んだのは、千葉県鴨川市にある入居金6,000万円の高級老人ホームだった。自室の広さは65平米で、レストラン、図書館、露天風呂、ジム、カラオケ、ビリヤードといった娯楽施設のみならず、提携する病院のサポートまであるという至れり尽くせりの環境だったが、彼にとってはあまりにも退屈な日々だったようだ。2021年に入居したにもかかわらず、そのわずか2年後には退去を決断した。結局、その高級老人ホームが終の棲家になることなく、彼は再び東京へ戻ることになったのだ。
https://president.jp/articles/-/78670?page=1

80代を迎えた平野は、新たな計画を練っている。それは、ロフト桜上水という、おもに高齢者を対象とした「シェアハウス&カフェ」のオープンだ。それを聞いて、違和感を覚えることはなかった。20代だった平野が烏山ロフトをつくってから55年後に、80代の平野がロフト桜上水をつくる。それは、年齢的な嗜好の変化として捉えることもできるだろう。つまり、かつて若者の文化拠点だった空間が、半世紀を経て、高齢者の憩いの場になったというわけだ。もっとも、これはあくまでも表面的な解釈に過ぎない。むしろ、ライブハウスを「公共圏」として描いてきた、平野の一貫した姿勢が垣間見えてくる。
http://blog.livedoor.jp/yu_hirano/archives/2021262.html

かつて、平野悠へのインタビューをおこなったことがある。自著『ライブハウス文化論』(2008年)の原型となった修士論文を執筆していた際に、ライブハウス文化の実態を探るべく、まだライブハウスという言葉が一般的に用いられていなかった1970年代に、ライブハウスの先駆的な空間を築いた平野の言葉を掘り起こそうとしたのだ。今から20年以上前の2000年代前半、平野はまだ60代だった。とくに印象的だったのは、ライブハウスをつくった平野自身が、ライブハウスを否定的に捉えていたことだ。はたして、ライブハウスを「公共圏」として描いていた彼の目には、ライブハウス文化の変質がどのように映っていたのだろうか。
https://www.seikyusha.co.jp/bd/isbn/9784787232854/

ライブハウスを学術的に読み解くこと

ライブハウス研究が広く波及するようになって久しい。そうしたなかで、ライブハウス研究に携わる若手研究者も増加傾向にある。もはや、ライブハウスを学術的に読み解く、いわゆる「ライブハウス・スタディーズ」なる分野があってもおかしくないだろう。そんな思いを込めながら、『ライブハウス・スタディーズ:箱(ハコ)を取り巻く生態系(エコシステム)』という一冊を編むことになった。10人の若手研究者を執筆者に迎え、ライブハウス文化が抱える様々な課題について議論を展開している。
https://www.nakanishiya.co.jp/book/b10159931.html

東京の御徒町にある学術バーQにて、『ライブハウス・スタディーズ』の出版記念イベントが開催された。「ライブハウスを学術する夜ー複眼的に読み解く「音楽の現場」の生態系」と題したイベントには、執筆者から新山大河と小林篤茂、討論者としてポピュラー音楽研究を専門とする加藤賢と澤田聖也が登壇者となって、議論に華を添えることになった。当日は登壇者のみならず、来場者も巻き込みながら、充実したイベントになった。僕はといえば、あくまでも司会進行という立ち位置から、若き研究者たちの邪魔にならないようにと、極力自らの発言を抑えることにしていた。いくつかフィードバックすべき点もあるのだが、ここでは「公共圏」としてのライブハウスという文脈から指摘しておこうと思う。
https://note.com/q_gakujutsu/n/n7ffe43e5cf73

『ライブハウス・スタディーズ』の第8章では、執筆者の村尾尚哉がかつて働いていたライブハウスについて言及しているが、この店は「ライブハウス」ではなく「コーヒーハウス」の名を冠している。討論者の加藤は、この「コーヒーハウス」という言葉に触れながら、イギリスではコーヒーハウスが「公共圏」としての役割を果たしたことから、それを意識しているのではないかと指摘した。自著『ライブハウス文化論』では「ライブハウス」という呼称の由来を探っているのだが、そのひとつとして「⚪︎⚪︎⚪︎ハウス」を一例としてあげている。1970年代には「コーヒーハウス」をはじめとする「⚪︎⚪︎⚪︎ハウス」という空間が数多く誕生し、音楽のライブをやる空間は「ライブハウス」と呼ばれるようになったというわけだ。それが「公共圏」と関係あるのかは定かでないが、少なくとも1970年代に誕生したロフトが「公共圏」を意識していたことは紛れもない事実なのだ。
https://jittoku.sakura.ne.jp/

ライブハウスを学術的に読み解くことは、音楽そのものを探求することだけでなく、ライブハウスを取り巻く事象を俯瞰して捉えることでもある。『ライブハウス・スタディーズ』では「生態系(エコシステム)」という概念を用いながら、ライブハウス文化で不可視化されてきた問題点について触れている。そこには、労働やジェンダーといった、これまで語られてこなかった課題が含まれている。そのような視座から、まもなく大阪の梅田ラテラルで開催される出版記念イベント「ライブハウスを包む不思議な世界へようこそ!」では、執筆者から村尾、そして新山と野村駿がリモートで、また、討論者としてポピュラー音楽研究の下川詩乃と永冨真梨が登壇して、ライブハウスを学術的に読み解く作業を試みる。
https://lateral-osaka.com/schedule/2026-04-24-18917/

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