2026年6月に開催された10代アーティスト限定の音楽コンテスト「閃光ライオット」に出場した高校生のコピーバンドが、ステージ上でベースを破壊した行為についてSNSを中心に話題となった。これに対して多くのコメントが寄せられたが、「楽器を大切にすべきだ」「楽器を壊すのはよくない」といった道徳的な意見に加え、「スタッフが迷惑する」「大会でやることではない」「審査の場にふさわしくない」といったような否定的な意見が目立った。
もちろん、これらの意見には妥当性がある。演奏者にとって楽器は表現を達成するために必要不可欠な道具であり、ある種のパートナー的なものを破壊することは言語道断という意味が込められている。また、ライブイベントは多くのスタッフによって支えられており、安全管理や進行上の配慮も必要である。また、大会という性質上、一定のルールや秩序が求められることは自然である。
しかし、ロックの歴史を振り返ると、1960年代にはザ・フーやジミ・ヘンドリックスが演奏表現の延長としてギターやアンプ、楽器を破壊しており、それはロックの反体制的なイデオロギーを象徴するパフォーマンスとして存在していた。その後も楽器破壊はロックカルチャーの文脈の中で繰り返し引用されてきた表現の一つである。
もちろん、それが現在でも積極的に肯定されるべきだということではないし、高校生が模倣すべき行為であるとも言えないだろう。しかし、少なくとも楽器破壊は一つの表現としてロックカルチャーの文脈においては理解されてきた歴史が存在する。
ところが、今回の議論では、そのような文化的背景が話題の中心ではなく、「楽器を壊してはいけない」という、あたかも初めから存在していたかのような規範を元に、価値判断されているように見える。そして議論の焦点は、「なぜ破壊行為をしてはいけないのか」という点に集約された。その中には、「大会だからふさわしくない」という意見もあった。先に挙げたように大会には運営上のルールが存在しているため、出演者はそれに従う必要がある。しかし、「ふさわしい」とはいつ、誰が、どのような基準で決めたのだろうか。
演奏技術や楽曲の完成度だけではなく、礼儀や態度、スタッフへの配慮、場に応じた振る舞いまで含めてアーティストやバンドを評価するという考え方は、いつ、どのように共有されるようになったのだろうか。 今回の出来事は楽器破壊の是非を論じるためのものとは言えない。音楽表現を私たちがどのような価値基準で評価しているのかを考えるための問いとして考えられるだろう。かつてロックカルチャーの内部では、一定の文脈を持って理解されていた行為が、今日では否定的に受け止められた。さらには「時代に合わない」という意見も見られたが、これは単に時代の変化として片づけられるものなのだろうか。
私たちがアーティストやバンドを、彼らの音楽活動や表現を評価する際の基準そのものが、どのような価値観によって形づくられて、どのように変化して、今があるのか、改めて考えさせられる出来事であった。