危機的な状況に直面したときに人は、否でも応でもコミュニティやアイデンティティを意識することになる。レベッカ・ソルニット(『災害ユートピア』亜紀書房、2010年)とナオミ・クライン(『ショック・ドクトリン』岩波書店、2011年)は対照的な立ち位置から、有事の際に露呈するコミュニティとアイデンティティの関係を描き出している。ソルニットは災害に直面した人びとが自発的に利他的な互助行為をおこなう一方で、為政者の混乱が社会のパニックを引き起こすと主張する。クラインは災害に直面した人びとがショック状態に陥り、それにつけこんだ為政者が大胆な改革をおこなうと主張する。ふたりのロジックは必ずしも同じものではないが、どちらの主張も理にかなっており、相互補完的な解釈も可能になる。さらに、政府に対する評価の低さという共通点を窺い知ることができる。言い換えれば、新自由主義のオルタナティブが求められているということかもしれない。もちろん、ソルニットとクラインの議論は、欧米に限らず日本にも当てはまることだ。2011年の東日本大震災では、地域の復興と人びとの絆が叫ばれた。2020年のコロナウイルス禍では、国家のあり方と人びとの協調が問われた。そんな危機的な状況によって引き起こされた社会的な不安は、人びとに政治へのコミットメントを自覚させはじめることになったのだ。程度の差こそあれ、日常のなかで政治を意識せざるを得ない社会になったというわけだ。とくに、これまでタブー視されていたミュージシャンや芸能人の政治への関与は顕著だ。ポスト3.11では「音楽に政治を持ち込むな」(フジロックの出演者をめぐる問題が発端)が話題になり、今回のウイルス禍では「ミュージシャンや芸能人の政治的発言」(きゃりーぱみゅぱみゅ、水野良樹、小泉今日子、など)が取り沙汰されている。

 ミュージシャンであろうと芸能人であろうと、いわんや一般人であろうと、政治に口を出すことは憚られるものだった。しかし、少しずつではあるものの、そうした風潮は変わりつつある。ウイルス禍に直面している現在では、ポスト3.11からの連続性として、政治へのコミットメントの日常化が見受けられるようになっている。もちろん、「音楽に政治を持ち込むな」にせよ「ミュージシャンや芸能人の政治的発言」にせよ、政治へのコミットメントに対する消極的な態度が前提になっているのは間違いない。それにもかかわらず、政治へのコミットメントの実践が少なからず見られるようになっているのも事実だ。たとえば、ウイルス禍ですっかりスケープゴートになったライブハウスは、好むと好まざるとにかかわらず、政治へのコミットメントを余儀なくされている。そもそも、国や行政からの要請を受けて休業したライブハウスに対して補償がないのは理不尽だ。持続化給付金、雇用調整助成金、休業要請への協力金や休業支援金といった公的な措置を利用しながら、どうにか急場を凌いではいるものの、さすがに長期にわたる営業自粛と休業要請に疲弊しているライブハウスは数多ある。そもそも、公的な措置が必要とするところへ行き届いていないという事実もある。とはいえ、ライブハウスが運営を継続させるために、国や行政の支援は必要不可欠だ。そこで、政治へのコミットメントが大きな意味を持つことになるというわけだ。

 ウイルス禍で早期の段階からライブハウスの支援活動に関与していた「Save Our Space」(音楽)は、「SAVE the CINEMA」(映画)と「演劇緊急支援プロジェクト」(演劇)と連携しながら、文化芸術復興基金の創設を求めた「We Need Culture」プロジェクトをはじめている。ライブハウスはもちろんのこと、ミニシアターや小劇場といった、いわゆる大文字の「文化」や「芸術」からこぼれ落ちるアンダーグラウンドの「文化」や「芸術」にも、国や行政の支援が必要になると訴えかけるものだ。(もっとも、殊更に「文化」や「芸術」を強調することには、個人的に違和感を覚えるということは付け加えておこう。)こうした試みは、クラインが主張する社会民主主義的な福祉体制に当てはまるだろう。その一方で、ソルニットが主張する自発的な互助行為に当てはまる動きも数多く見られる。たとえば、「SAVE THE LIVE HOUSE」(https://savethelivehouse.com/)、「SAVE THE LIVE HOUSE PROJECT」(https://ros-familia.com/thehome/)、「MUSIC UNITES AGAINST COVID-19」(https://www.savelivehouse.com/)、「LIVE FORCE, LIVE HOUSE」(http://liveforcelivehouse.com/#/)といった、さまざまな “Save the Live House”(ライブハウスを救え)の試みは、ライブハウスやライブハウスを支援する人たちによるクラウドファンディングが中心になっている。もちろん、こうした自発的な互助行為によってライブハウスが救われるのであれば、それは理想的な解決策になるだろう。とはいえ、今回のウイルス禍による損失は、もはやクラウドファンディングで補填できるようなものではなくなっているのだ。そんななか、ライブハウスみずからが政治へのコミットメントを自覚するようになってきた。それは、政治に訴えかけるロビーイングだ。

 全国的には地域ごとに策定したガイドラインにもとづきながら、ライブハウスの営業が再開しつつある。もっとも、国が定めるガイドラインはいまだ調整中だ。6月5日におこなわれたガイドライン策定会議には、感染症対策の専門家3名(そのうち1名はリモート)と政府関係者3名、そしてライブハウス業界から4団体(「一般社団法人ライブハウスコミッション」、「日本ライブハウス協会」、「飲食を主体とするライブスペース協議会」、「日本音楽会場協会」)が参画した。その翌日、日本音楽会場協会はインターネットでのライブ配信をおこない、ガイドライン策定に関する質問などに答えた。僕もライブ配信のチャットを利用して、「日本音楽会場協会が会議へ参加しなければ、ガイドラインはライブハウスなどの小規模会場を想定したものにはならなかったのか」という質問を投げかけると、「いわゆる『ライブハウス』と言われるところは想定されていたが、ライブバーなどが漏れていた可能性はあった」という回答があった。この会議に当初から参画していた団体は「ライブハウスコミッション」と「ライブハウス協会」の2団体で、ともに中規模以上のライブハウスを取りまとめる団体(とはいえ、ポスト3.11の社会では機能不全の状態だったのだが)だったため、ライブバーなどを含む小規模のライブハウスはガイドラインに想定されていなかったようだ。そこに、あとから残る2団体が参画したおかげで、ガイドラインの策定から小規模のライブバーなどがこぼれ落ちることなくすんだというわけだ。新参の2団体は、小規模のライブハウスからの意見を多く取り入れている。つまり、小規模のライブハウスみずからが政治へのコミットメントを自覚した結果ともいえるだろう。

 2010年代にクラブカルチャーを巻き込んだ風営法改正問題では、好むと好まざるとにかかわらず、多くのクラブが政治へのコミットメントを余儀なくされた。しかし、多くのライブハウスは対岸の火事としてとらえていたと言わざるを得ない。そもそも、ライブハウスの業界団体すらまとまりを見せることがなかったのだ。今回のウイルス禍では、個々のライブハウスには同情するものの、ライブハウス文化全体を俯瞰すれば、これまでの負の側面が露呈することになってしまった。そのうえで、これからは、政治へのコミットメントの是非ではなく、その姿勢が問われるはずだ。もはや、ライブハウスの政治へのコミットメントが必須なことは明らかだ。もちろん、そこには、コミットメントしないという選択肢も用意されている。そして、問われるのは是非ではなく、どのようにコミットメントをはかるかということだ。たとえば、クラブカルチャーの風営法問題では、政治へのコミットメントが法律の改定を実現させた。その一方で、クラブカルチャーそのものの変質をうながすことにもなった。つまり、何のために政治へのコミットメントが必要なのかということだ。クラブカルチャーの風営法問題では、守りたかったのが「文化としてのクラブ」だったのか、それとも「文化産業としてのクラブ」だったのか、という問いが見え隠れしている。それは、ライブハウスにも言えることだ。つまり、いま守ろうとしているライブハウスは、「文化としてのライブハウス」なのか、それとも「文化産業としてのライブハウス」なのかということだ。もちろん、その姿勢はどちらでもかまわない。ただし、それを見誤ってしまうと、まったく期待はずれの結果が導きだされてしまうだろう。

宮入恭平