中川五郎 2020年06月05日

 6月中頃にまた人前で歌ってみることにした。今年の初めから春にかけてすでに引き受けていた9月までの8,9回ほどのライブをやってみることに決めたのだ。

 いったいいつからライブ活動をまた始めればいいのか、何を根拠に判断すればいいのか、考えても考えても、悩んでも悩んでもはっきりとした答えを見つけられないままだ。ずっとこもっているうちに人前で歌いたいという自分の気持ちが恐ろしいことにどんどん削がれていくようにも思えてくる。思いきって今年はライブをやめようかという考えすら浮かび上がって来る。

 ぼくの気持ちはまだまだ混沌としていて揺れ動いているが、6月中頃にまた人前で歌ってみることにした。といっても新たにライブの予定を入れるというのではない。新型コロナウイルスの感染が日本で拡大する前、今年の初めから春にかけてすでに引き受けていて、その後主催者やお店と相談したりして、今も延期や中止の決定がなされていない9月までの8,9回ほどのライブをやってみることに決めたのだ。

 もちろん歌って唾が飛び散ることを避けたり、会場に来た人たちが接近することを避けて距離を保ったり、消毒や換気に気をつけたりと、いろいろと制限のある、とても「窮屈」な環境でのライブとなってしまうことは承知の上だ。それでもやれるのだろうか、それでもやった方がいいのだろうか、やる価値があるのだろうか、「配信」などのほかの手段ではできないことがやれるのだろうか、ぼくに自信や確信はないが、とにかくやってみることにした。やってみないことにはどんな感じになるのか掴めないし、それ以上に先にも書いたように、ライブをやらずにいるとやろうとする気持ちがどんどん奪われていくようで、それがとても恐ろしい。歌を作り歌い続けて行く上で自分の活動の中心に置いて、それなしではやっていけないとがむしゃらになってぼくが取り組んでいたのがライブなのに。

 一方、だからといってまだ「時期尚早」の段階で、「無鉄砲」あるいは「勇み足」のライブを「見切り発車」でやるつもりは毛頭ない。しかしいったい何をよりどころにして決めればいいのかということがいつまでたってもはっきりと掴みきれず、とにかく一度やってみてどこまでできるのか、どんな状況になるのか、自分がどんな気持ちになるのか、それを確かめてみたくなった。国や自治体が発動する基準は信用できないし、それに無批判に従いたくはない。

 一昨日6月3日のこと、親しい人が亡くなって、その人とのお別れの場に行くために、2ヶ月と一週間ぶりに自分の住む街を離れ、電車に乗ったり、人と会ったりした。新型コロナウイルス感染が拡大する状況の中、ぼくは3月の終わりから6月の初めまで、「恵まれた」ことに自宅にこもることができ、2ヶ月の間家から出るといってもごく近所に足を運ぶだけで済んでいた。

 そして昨日、電車や地下鉄に乗り、お別れの場でたくさんの知り合いにも会い、喫茶店で一緒にお茶を飲んだりもする中、マスクをつけたまま、そしてお互いに距離を取り合うという、いわゆる「新しい生活様式」が、いかに「不自然」で「非人間的」で、とにかく「窮屈」で仕方がないということをいやというほど思い知らされた。少し距離を置いて、マスクで口を隠し、目だけでコミュニケートすることの難しさや不自然さ、不自由さについても。でもぼくは「恵まれた」立場で、新型コロナウイルス感染拡大後ずっと自宅にこもっていることができたが、外に出なければならないほとんどの人たちは「緊急事態」の中でも、外に出てさまざまな「不自然」さや「非人間的」なこと、「窮屈」な思いを強いられたり、味わったりしていたし、今もし続けているのだ。

 そんな「新しい生活様式」が席巻し、定着し、それがあたりまえだとされる状況の中で行うライブやイベントはいったいどんなことになるのだろうか。それでも大丈夫なのか、それともどうしようもないのか、ライブに代わるもっと別の方法があるのか、今のぼくにはやってみないことには見当がつかない。そして9月まで決まっているライブをやってみて問題がなければ、9月以降もすでに決まっているライブがいくつもあるので、それらも実現できることを強く願っている。そしてこの先新たにいろんなライブの予定を入れるとしても、新型コロナウイルス感染拡大状況や「新しい生活様式」の影響だけでなく、もうすぐ71歳になるという自分の年齢も考えて、以前のようにお誘いさえあればいつでもどこへでも歌いに行くというやり方は考え直さなければならないかもしれない。2ヶ月以上ライブから遠ざからなければならなかったことは、今後のぼくの活動、とりわけ今後のライブ活動について考え直すいい機会になったと思う。

 しかし2ヶ月と一週間(正確には70日)ぶりに「外」に出て、まだまだ「アラート」が鳴り響く「新しい生活様式」の世の中に数時間いただけだというのに、ぼくはこれまでと同じようなライブはもうできないのかもしれないと思ってしまった。この状況がそう簡単には終わらないだろうということも実感できた。ぼくは悲観的すぎるだろうか。

 たかがウイルス、時間が経てば乗り越えられる、忘れてしまえると考えている人もたくさんいるだろう。しかしこのウイルスは人の肺や気管に襲いかかるだけでなく、すべての表現活動、ありとあらゆる「文化」活動、「創作」活動にも襲いかかったとんでもなく手強い存在だとぼくは考えている。とりわけぼくに関して言えば、人前で歌ったり、歌を作ったり、歌をみんなと一緒に歌ったり、誰かと一緒に演奏をしたり、みんなの歌を聞きにいったり、そんなこれまであたりまえだと思っていたことに激しく襲いかかったのだ。感染症のウイルスは特効薬やワクチンで撲滅できるかもしれない。しかし人々の文化や創作がおかしなかたちで「冒され」つつある時、どんなふうに受けとめ、どんなやり方で立ち向かえば、それをもとに戻す、あるいは新たな活路を切り開くことができるのだろうか。「特効薬」はなさそうだ。だからこそぼくは自分の判断が間違っていないか絶えず確かめながら、試行錯誤も辞さず、「新しい生活様式」にただただ合わせるのでもなければ、妥協したり萎縮したりするのでもなく、「ポスト・コロナ」と呼ばれる時代の中、ライブとは何かということをこれまで以上にポジティブに、真剣に考え、追求し続けていきたいと思う。

 昨日4月4日の夜、新しい映画『ホドロフスキーのサイコマジック』を完成させたアレハンドロ・ホドロフスキー監督に話を聞くDOMMUNEの番組を見た。東京のスタジオとパリのホドロフスキー監督の自宅とが繋がり、91歳の監督は、新型コロナウイルスの感染が拡大した今の世界を前にして、どこまでもポジティブに芸術のこと、創作のこと、未来のこと、地球のこと、宇宙のことを語っていた。91歳の監督からは、それこそあと何十年も生きてより素晴らしいものを生み出したいという熱と勢いとがビシビシ伝わってきた。これからの「現実」に向き合う知恵やヒントを91歳のホドロフスキー監督はもうすぐ71歳になるぼくに与えてくれた。

中川五郎、フォークシンガー
1949年、大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動の中心に。90年代に入ってからは小説の執筆や翻訳を行う。90年代半ばから活動の中心を歌うことに戻し、日本各地でライブを行なっている。
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※この記事は、中川五郎さんがご自身のウェブに公開したものを、ご本人の許諾を得て転載したものです。