日本国内にとどまらず、ウイルス禍は世界的な脅威となっている。2016年に刊行されて話題になった『サピエンス全史』(河出書房新社)を著したイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、ポストコロナ時代の世界について、新聞、テレビや雑誌といったさまざまなメディアで言及している。さまざまな示唆に富んだ議論を展開しているハラリだが、そのなかに監視社会と民主主義について語った日本経済新聞への寄稿記事がある。「コロナ後の世界に警告」と題したコラムでは、ポストコロナ時代の世界で人びとが「全体主義的な監視」と「市民の権限強化」のどちらを選ぶのかという問いを投げかけている。ミシェル・フーコーやジョージ・オーウェルに代表されるパノプティコン的な監視から、ジグムント・バウマンやデイヴィッド・ライアンに代表される後期近代の相互監視に至るまで、監視社会についてはプレコロナ時代の社会で大きな論点になっていた。もちろん、監視社会は民主主義とも大きな関係がある。「権力による監視が市民生活を脅かすことは、断じて許されるべきではない」という世界的に共有された概念は、もちろん日本でも変わりない。とはいえ、今回のウイルス禍で露呈したのは、監視が感染を抑える効力を発揮したという事実だ。つまり、「全体主義的な監視」があったからこそ、人びとの行動が制限され、結果的に感染の抑えこみが可能になったというわけだ。その一方で、ハラリは「市民の権限の強化」という選択肢を提示する。科学的な根拠や十分な情報の提供によって、人びとは良識ある行動を実践できるというのだ。もっとも、そこには科学、行政やメディアに対する信頼がともなわなければならない。残念ながら、ウイルス禍における日本政府の対応は、必ずしもデータやエビデンスにもとづいたものとは言えない。つまり、信頼がともなわないのだ。好むと好まざるとにかかわらず、こうした信頼の欠落は、ポスト3.11の社会で蔓延してしまったものと言えるかもしれない。

 もはや監視社会は、〈管理する側/管理される側〉という文脈のみで語れなくなっている。たとえば、かつての「政府が市民を監視する」という議論は、「市民も政府を監視できる」という議論へと広がりを見せることになる。それは、バウマンとライアンの『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について』(青土社)における相互監視の文脈にも繋がっている。実際のところ、今回のウイルス禍では、市民のあいだでの相互監視が目につくようになっている。思想家の内田樹は自身のブログで、行政が民間に自粛を委ねてしまったおかげで、自粛に応じないものには市民が処罰してもよいという風潮が正当化されている状況を危惧している(「隣組と攻撃性」『内田樹の研究室』2020年4月27日)。そして、ライブハウスにも相互監視の闇が忍び寄る。休業要請にもとづいたライブハウスには協力金が支給されるが、無観客のライブ配信は営業外として認められている。それにもかかわらず、無観客のライブをしていた休業中のライブハウスには、「安全のために、緊急事態宣言が終わるまでにライブハウスを自粛してください。次発見すれば、警察を呼びます」という近隣住民からの苦情が寄せられたのだ。ライブハウスの店長が自身のTwitterに、「無観客で営業してないんだしお酒もフードも出してないんだから、配信ぐらいさせてよって思ったけど、仕方ないよね。世知辛い」とツイートしたことから、この問題が明るみになったというわけだ。ライブハウスの店長によると、これまで通常のライブで近隣からの苦情が寄せられたことはなかったとのこと。それを考えると、ウイルス禍における人びとの心性が露呈したものとしてとらえることができるだろう。もっとも、こうした心性の醸成は、ウイルス禍によってもたらされたものというよりはむしろ、社会政治的なものによってうながされたものだ。結局のところ、行政による自粛という不明瞭で無責任な要請は、市民のあいだの相互監視を助長することになる。なるほど、そこで「自粛警察」なる存在が現れるというわけだ。そうなると戦時下における「隣組」よろしく、為政者にとっては好都合というわけだ。みずからの手を煩わすことなく、市民が互いに監視し合いながら自粛をうながすのだから。

 何度も繰り返しているが、今回のウイルス禍ではライブハウスなるものがあまりにも不当な扱いを受けている。さかのぼって、2月半ばに大阪のライブハウスで感染者のクラスターが確認されて以来、メディアでライブハウスが話題になる機会は増えている。もっとも、ライブハウスに対する人びとの認識は、必ずしも好意的なものではないのが事実だ。5月4日には政府が緊急事態宣言を同月31日まで延長する方針を決定し、引き続き自粛を要請する業種も公表した。当然のことながら、そこにはライブハウスも含まれている。もちろん、ライブハウスが感染拡大の恐れがあるということで自粛を要請されることは、クラスターが発生したという事実を鑑みても仕方がないことだろう。だからと言って、(休業要請に応じた協力金があるとは言えども)「補償なき自粛」が正当化される理由にはならないのだ。ましてや、相互監視のもとで自粛が強要されることは、断じてあってはならないことだ。その一方で、個人的な意見として、ライブハウスを「大文字」の〈文化〉としてとらえることには違和感を覚えてしまう。僕自身、3月に東京新聞の取材を受けたときには、「ライブハウスは音楽文化のひとつ。それが消えてしまいかねない」(「東京新聞」3月11日)というコメントをしたのは事実だ。だからと言って、ライブハウスを「大文字」の〈文化〉として、その存続を強調する動きには抵抗がある。もちろん、ライブハウス文化を守ることは当然のことだが、ライブハウスを「大文字」の〈文化〉に仕立てあげることは、同時にライブハウス文化そのものの存在意義を否定してしまうことになるのではないだろうか。

宮入恭平