2017年7月9日、初めて山下達郎のコンサートへ行った。さすが「アルチザン(職人)」としての彼のコンサートは、音楽に対するこだわりに満ち溢れていた。彼は「なかなかチケットを入手できないアーティスト」として有名だが、幸運にも前から2列目のチケットを入手したおかげで、期待をうわまわる満足感が得られたのは言うまでもない。真夏でも「クリスマスイブ」の気分を満喫させてくれた彼のパフォーマンスは、やはり職人ならではのものだろう。これまでも彼の素晴らしい多くの作品に触れてきており、数枚ながらアルバムも持っている。ましてや、(このときが初めてだったが)コンサートへも足を運ぶくらいだから、熱狂的なファンとまではいかないまでも、嫌いなはずがないのは間違いない。だからと言って、人生が変わってしまうほどの影響を受けたわけでもないのが正直なところだ。もちろん、音楽の好みは人それぞれ、千差万別だ。そもそも、山下達郎はシティ・ポップを代表するアーティストだ。シティ・ポップは1970〜80年代の日本のポップ・ミュージックの総称だ。当時はニューミュージックと呼ばれた音楽ジャンルが一般的だったが、そのなかでも「都会的なシャレた感覚をもつもの」に与えられた呼称がシティ・ポップ(当時はシティ・ポップスと呼ばれていた)だった。そこには大滝詠一や松任谷由実、そして山下達郎も含まれていた。もっとも、シティ・ポップスという言葉はニューミュージックのサブジャンルに過ぎず、広く浸透することはなかった。やがて、1990年代になると、日本のあらゆる音楽はJ-POPの名のもとに統括されることになった(宮入恭平『J-POP文化論』彩流社、2014年)。ちなみに、最近のシティ・ポップの再評価は、インターネットの普及にともなう音楽のグローバル化によるものだ。ここ数年来、海外で1970〜80年代の日本の音楽がシティ・ポップの名で人気を博すようになったということだ。ちなみに、シティ・ポップの再評価は、マーク・フィッシャーによる「憑在論」の議論にも結びつくものだ(宮入恭平「若きカート・コバーンの悩み」『国立音楽大学紀要』54、2020年)。

 そんな山下達郎がパーソナリティを務めるラジオ番組『サンデー・ソングブック』(TOKYO FM)を耳にしたのは、ウイルスの拡散防止を目的として7都道府県に緊急事態宣言が発出されてから初めての週末になった4月12日のことだった。番組の冒頭で、彼は「いま、いちばん必要なのは政治的なものを乗り越えて、団結ではないかと思います」と、神妙な面持ちでリスナーに語りはじめた。つづけて、「政治的対立を一時休戦して、いかにこのウイルスと戦うかを、国民のみんなで、また世界中のみんなで助け合って考えなければならないときです。なんでも反対、プロパガンダはお休みになりませんか。責任の追及、糾弾は、このウイルスが終息してからいくらでもすればいいと思います。冷静さと寛容さが何よりも大事です。正確な判断は冷静さでしか生まれません。我々は我々ができることをしましょう」と、ある意味で強力な政治的メッセージを発信したのだ。そもそも山下達郎は、みずからの政治的な立ち位置を明確に表明してきたアーティストではない。もちろん、それは否定されるべきことではない。すべてのアーティストが政治的に自覚的である必要がないことは理解できる。しかし、政治性から距離をとりつつ、「アルチザン」として音楽に関与してきた彼が、このウイルス禍で図らずも政治的な見解を露呈してしまったことにより、SNSでも物議をかもすことになった。もっとも幸か不幸か、同じ日のSNSでは、それ以上に星野源が大きな話題になっていた。より正確に言えば、話題になったのは、星野源が投稿した「うちで踊ろう」のパフォーマンスとコラボレーションをした安倍晋三首相の方だ。ウイルス禍で人びとがさまざまな苦難を強いられているなかでの一国のリーダーの言動に、大きな批判が巻き起こったというわけだ。なかには、音楽の政治利用を訴える声も少なくなかった。その一方で、星野源に対しては、好意的な意見が目立った。首相のとばっちりを受けた被害者として、同情のまなざしを向けられもした。そんななか、音楽を政治利用されたくなければ、日常的にアーティストがみずからの政治姿勢を明確に示すべきだという声もあがった。

 星野源はエッセイ『働く男』(文春文庫、2015年)で、みずからのある種シニシズム(冷笑主義)的な立ち位置を綴っている。「今でもたまに、『音楽で世界を変えたい』と言う人がいる。僕は『音楽で世界は変えられない』と思っている。無理だ。音楽にそんな力はない」と、その胸のうちを明かしている。そして、「国を変えるのはいつでも政治だし、政治を変えるのはいつでも金の力だ。そこに音楽は介入できない。できたとしても、X JAPANの楽曲を使って型破りというイメージを定着させた小泉純一郎のように、ただ利用されるだけだ」とする、彼自身の音楽と政治の立ち位置を語っている。確かに、ここでは彼の政治姿勢が明確に示されているわけではない。もっとも、だからと言って、彼の政治姿勢が音楽の政治利用(とも思われる結果)を招いたわけではないはずだ。1990年代のJ-POPの登場は、最大公約数に消費される消費財としての、「無色透明」で「無味無臭」な音楽の量産をうながしてきた。その転機が訪れたのは、2011年3月11日だった。ポスト3.11の社会では、音楽と政治の近接性が語られるようになった。しかし、その一方で、再帰的無能感が高まったのも事実だ。気がつけば、いつしか「音楽に政治を持ち込むな」という声も遠のいていた。しかし、今回のウイルス禍で露呈したのは、明らかにポスト3.11から連続する、自覚的にせよ無自覚的にせよ、プロテストからプロパガンダにいたるまでの、音楽と政治の近接性にほかならない。どれほど音楽と政治の乖離を望んだところで、斉藤和義、後藤正文や坂本龍一から、椎名林檎、ゆずやRADWIMPSまでをも含めて、社会のなかでは音楽が政治から逃れることはできないのだ。

 前述のエッセイで星野源は、「音楽でたった一人の人間は変えられるかもしれないと思う。たった一人の人間の心を支えられるかもしれないと思う。音楽は真ん中に立つ主役ではなく、人間に、人生に添えるものであると思う」と語っている。その一方で、ニール・ヤングは、「たったひとつの歌だけで、世界が変わることはないだろう。たとえそうだとしても、僕は歌いつづけるさ」という言葉を残している。

宮入恭平