まるで、ディストピア小説を読んでいるようだ。そして、状況は日々刻々と変化(あるいは悪化)している。東京や大阪などの7都府県には、4月7日に緊急事態宣言が発令された。ウイルスという「見えない脅威」を目の前に、いつ誰が感染する(あるいは、感染させる)かもしれないという毎日の生活は、これまでの日常からはほど遠く、非日常の日常化と呼んでも過言ではないだろう。そんなウイルス禍のなかで、なぜか「ライブハウス」が注目を浴びることになってしまった。その発端となったのは、2月半ばに大阪のライブハウスから発生した、いわゆるクラスターと呼ばれる集団感染だ。メディアは当該ライブハウスを実名で公表したうえで、「身動きがとれないほどの人だかり」や「密閉空間」といった否定的な環境であることを強調した。確かに、多くのライブハウスでは防音などの観点から、のちに「3密」(仏教用語の「三密」ではなく)と名づけられた「密閉」(=窓がなく換気が悪い)、「密集」(=手の届く距離に多くの人)、「密接」(=近距離での会話や発声)というすべての条件が当てはまってしまう。そして、残念ながら、ライブハウスからクラスターが発生してしまったのは紛れもない事実だ。
情報公開という点を鑑みれば、ライブハウスの実名公表が最善の措置だったことは間違いないだろう。それにもかかわらず、個人的には「ライブハウス」という言葉が一人歩きしているような気がしてならない。あたかもライブハウスが「諸悪の根源」であるかのような言説―スケープゴート、ステレオタイプ、もしくはスティグマ―は、その後も残存しているのだ。たとえば、3月30日には東京都の小池百合子知事が、ウイルス拡大防止策として求めていた夜間の外出自粛の要請を強化し、業種を特化しての注意をうながした。小池知事は対象になる業種の一例として、「若者はカラオケやライブハウス、中高年はバーやナイトクラブ」をあげ、「密閉空間、密集場所、密接会話といった条件が重なる場所だ」と強調した。もちろん、ライブハウスがまったく無関係というわけではない。しかし、自覚的にせよ無自覚的にせよ、メディアが、そして行政も、ライブハウスを「諸悪の根源」として名指ししたことによって、多くのライブハウス(として括られた存在)が窮地に立たされているのだ。
ライブハウスの窮状は、メディアや行政が名指ししたことではなく、感染拡大を防止するために余儀なくされた営業の自粛によるものだ。もちろん、こうした苦境を強いられているのは、ライブハウスに限ったものではない。それにもかかわらず、メディアや行政から名指しされたことによって、ライブハウスに対する社会的評価が失墜したことは確かなことだ。そもそも、ライブハウスなるものの存在が広く社会に認知されるようになって久しいものの、その一方で、ライブハウスそのものの存在が必ずしも社会に認識されているわけではないという事実は特筆すべきだろう。ライブハウスはあくまでも総称に過ぎず、規模から運営形態までさまざまだ。それにもかかわらず、「ライブハウス」という一括りにされた言葉でメディアや行政に名指しされたことによって、ライブハウスはすっかりと悪名高き存在になってしまったというわけだ。
緊急事態宣言の発令前夜となった4月6日、都内のライブハウス(175店)のウェブサイトから運営状況を確認する作業を試みた。その時点では、全体の47%に当たる83店がウイルス感染拡大防止のため、みずから営業を自粛する対応をとっていた。その一方で、全体の53%に当たる92店は、何らかの形で営業を継続していた。もちろん、ここで重要なのは、営業の自粛や継続の是非を問うことではなく、「ライブハウスは音楽文化のひとつ。それが消えてしまいかねない」(筆者コメント「東京新聞」3月11日付)という、ライブハウスが存続の危機に陥っているという事実だ。こうしたライブハウスの危機的状況に、助成金の交付を求める署名活動「#SaveOurSpace」がおこなわれ、3月27日から31日のあいだに30万筆以上が集まった。この署名活動に追随した音楽家団体「Save the Little Sounds」のアンケート調査(3月27日〜4月3日)によれば、全国のライブハウス(283店)の95%が減収、66%は貯蓄を切り崩して対処せざるを得ない状況に直面しており、この状況が継続した場合には20%以上が1ヶ月持つかわからないという回答をしている。さらに、このアンケート調査に準じて、筆者自身が数名のライブハウス関係者に聞き取り調査をおこなったところ、「補償なき自粛要請」に対する困惑と失望の声が大きかったのは、決して偶然ではないだろう。
最後に、僕自身のライブハウスに対する立ち位置について書き添えておきたい。12年前に著した『ライブハウス文化論』(青弓社)では、ライブハウスを批判的な視座から分析している。もちろん、ライブハウスは音楽文化として必要不可欠な存在であるという認識はありながらも、すべてを肯定的にとらえているわけではない。その存続の危機が叫ばれるなか、ライブハウスが抱える問題点も見え隠れしているのは事実だ。もっとも、それを語るのはまだ先の話だ。少なくとも、いまは、音楽文化のひとつであるライブハウスの存続に向けて、何ができるのか(できないのか)を考え、声をあげるときなのだ。
宮入恭平